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走り続けたQちゃんが、競技生活にピリオドを打つ。最後の大きな目標に掲げた「国内3大マラソン連続走破」に挑むことなく。「わたしが走ることで多くの人たちに元気を与えたい」-。ここ1、2年、高橋はしばしば、そんなセリフを口にしていた。だが、それにチャレンジせずに引退を決意したのは、自分なりに限界を感じたのだろう。



 栄光と挫折、復活、失速…。世界の頂点を極めた2000年シドニー五輪。さらに1年後、女子で史上初めて2時間20分の壁を突破した01年ベルリン・マラソン。そこから今日までは、マラソンランナーの生きざまをドラマ化したかのような数年間だった。



 向かうところ敵なしだったが、02年秋から歯車が狂いだす。ボルダー合宿で肋骨(ろっこつ)を骨折し、東京を欠場。アテネ五輪での女子史上初の連覇へ、プランが振り出しに戻った。仕切り直しの翌年、五輪代表選考会の東京では、よもやの失速で2位。難航した代表選考で外れ、国民的な関心を呼んだ。気持ちを切り替えた同五輪後の秋、今度は足首骨折。それでもくじけず、「チームQ」を発足した05年、東京で復活優勝した。結果的にはそこがピークで、以後は下り坂のまま。現役の終着駅としたかった北京五輪も、夢と消えた。



 シドニー五輪金メダルに国民栄誉賞。野口みずき(シスメックス)は当時、同五輪前の札幌国際ハーフマラソンで高橋に完敗した。女王の背中は遠いと感じながら「いつかわたしも」と闘志を燃やし、やがて新女王の座に就いた。高橋は、その後の日本の女子マラソン隆盛、レベルアップの先陣を切った。全盛期は「誰もやっていないことをやりたい」が口癖。十分ではないかもしれないが、それを遂行したマラソン人生と言える。その足跡は今後も語り継がれるに違いない。 

(時事通信社 - 10月28日 12:11)

 2000年シドニー五輪女子マラソンの金メダリスト、高橋尚子(36)=ファイテン=が28日夕、東京都内のホテルで引退記者会見を行った。

 笑顔で会見場に現れた高橋は晴れ晴れとして表情で着席し、「本日を持ちまして引退を決意しました」と、引退宣言。さらに、「3大会連続(マラソン競技)出場という大きな目標を掲げてきましたが、体力の限界を感じ、完全燃焼ができたので、さわやかな気持ちです」と語った。

 引退を決意したきっかけについては、足の故障や調整不足がいわれたが、「なにかあったわけではなくて、プロ高橋としての走りができなくなった。納得いく走りができなくなった」と多くのスポンサーを抱えるプロマラソンランナー高橋の苦悩をのぞかせた。

 高校、大学時代はだった高橋を一流ランナーに育て上げたのは小出義雄氏だったが、05年5月に10年に及んだ師弟関係を解消し、専属スタッフと「チームQ」を結成して北京五輪を目指す態勢を整えたが、復活はならなかっった。特定のコーチを付けないことで私生活から練習メニューまですべてを一人でしなければならなかったことも大きな負担となったが、小出氏から離れたことには、「大変だったことはありません。離れるときに引退しようと思っていたんです。もし、離れていなかったら、もっと早く引退していたと思います」と否定した。

 高橋は岐阜・県岐阜商高から大阪学院大を経て、社会人となってから小出義雄氏の下で才能を開花。シドニー五輪は陸上界に戦後初の金メダルをもたらし、国民栄誉賞にも輝いた。

 01年ベルリン・マラソンでは2時間19分46秒の当時世界最高を樹立したが、連覇が期待された04年アテネ五輪と、08年北京五輪は代表を逃した。マラソン通算11戦7勝。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081028-00000509-sanspo-spo


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